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          メール・マガジン

     「FNサービス 問題解決おたすけマン」

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    ★第058号      ’00−09−08★

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     プロセスとコンテンツ

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●EM法で基本的キー・ワード

 

とされるものがいくつかありますが、中でも<プロセス>と<コンテンツ>の

2語は、研修中、講師が口にすること頻繁です。

 

<プロセス>はもちろん、Rational Process の Process 。 話の筋、ですな。

その基本パターンは、切り詰めれば僅か4種類。 それさえマスターすれば、、

という技法であることは、このメルマガでもすでに<目に>タコ、でしょう。

 

しかし<コンテンツ>については、前号末尾で触れたのが初めてであったかも。

要するに<話の中身>、手に入る情報のすべて。  実はEM法用語としては

<コンテント>なのですが、情報が一つしか無い話など普通あり得ないので、

正しくは<コンテンツ contents >でしょうな。  辞書的語義としても、、

 

 

メロディー、リズム、ハーモニーの3要素で音楽が成り立っているのと同じく、

<筋>と<中身>の両方が整わなければ、鑑賞に耐える<話>にはなりません。

 

あいにく我が国の<教育>は、<教>あれど<育>なし。 すべて上級進学の

ための準備、というべく<中身>の詰め込みばかり。 コンテンツの量を競い、

用意された<正解>に合致するものを取り出して示す反射的訓練が主体です。

合格・不合格の判別も、その方式なら機械的に効率よく行なえますし、ね。

 

たしかに<中身>が無くては(文字通り)話になりませんが、それをどんな筋

に載せて生かすか、という<プロセス>についての教育が大切で、大学は本来

そのための場所なのです。   が、そんな大学、我が国にあるのだろうか?

 

入るまでの苦労を癒やす場所、いずれ受けることになる束縛に備えて出る前に

十分遊んでおく場所、即ち大宅壮一の「リージャーランド」になってしまって

おり、<プロセス>なんて意識は教える側にすらきわめて薄いのが現実。

 

さらに、学卒者を採用する側が、大学で何を学んだかなどほとんど評価しない。

本当の中身を調べる手間を省き、代わりに形式上の安心を求める。 そのため、

採用基準は俗に言う<一流大学、優秀な成績>。

 

一般商品同様、ブランドが良ければ、多分コンテンツも悪くはないだろう、と。

本人のではなく、大学のコンテンツ(への期待、あるいは幻想)で選別する形。

 

送り出す側、受け取る側、共に長らくそれで来た結果、この国はコンテンツの

量に基づく評価が支配する社会になってしまった。  <知識人>や<有識者>

と言えば何やら高級な人種のイメージです。  が、要するにコンテンツの人、

でしかないという意味でもありますね。   <頭でっかち>が多いのでは?

 

頭の中身はもちろん大切だけれども、それをどう生かすかの方がもっと大切だ、

とは思わないものですかね?  この国の情けない現状は、いわばプロセス的

思考と厳密着実な実行の欠如の結果なのだから、、

 

*   *

 

しかし現実、<思わない>ようです。 たとえば、管理職を悩ませる<会議>

の多さ、ムナシサ(!)がその証明。 だいたい目的が定かでない。 だから

筋も立たない。  立てても、途中からズッコケて、ウヤムヤで終わる、、、

 

発言者は時に本筋と関係なく、自分の専門的なウンチクを傾けたがるものです。

蘊蓄とは「積み蓄えること」、転じて「深い学問・知識」。  つまりその人の

コンテンツ。 それを語ること即ちその人にとっての自己実現です。 これは

(深層意識で)嬉しい。 嬉しくて容易に止まらず、つい延々、、  ところが、

 

聞く方もコンテンツ人種。 「知るは楽しみなり」ですから、無意識の喜びを

分かち合い、止めるどころか火に油、さらに細かなことを訊いたり。 それを

EM法では<コンテント質問>と呼びますが、問題の解明にはまず役立たない。

 

だから「会して議せず」や「議して決せず」になるわけ。  講師の経験でも、

<会議の効率向上!>は実務作業で必ず出される定番テーマでした。 いや、

程度の差はあるでしょうが、それはアチラでも、らしい。   たとえば、

 

***************

 

 

 

●マイケル・シュレーグ(正しくはシュレイジ?)

 

の「マインド・ネットワーク」(プレジデント社 1992年 " SHARED MINDS:

The New Technologies of Collaboration ")の中に、

 

 (9章 会議の生態学)

 

 「会議の個々の目的は、交渉、調停、企画、、、、であったりするが、

  いずれであっても、、、そのような目的はまったくどこへやら、、、」

                                p.220

 

 「特定の時間に特定の部屋の中で、発言、独り言、会話、討論、、、、が、

  時間の経過に従って順々に起こっていくだけである。  それが会議と

  呼ばれるものなのだ」                    p.221

 

 「誰かが話せば”その人”が話し合いの中心となる。、、、会議は自我の

  メリーゴーランド」                     p.221

 

 「話し手は”自分の”意見をのべるだけ、、」          p.222

 

とあって、みんなウンザリしていることは洋の東西を問わないようですから。

 

 

しかし著者は、その打開策も提案しています。 M.ドイルとD.ストラウス

の著書「会議を機能させる方法」からの引用ですが、

 

 「会議の生態系はすべて<内容>と<プロセス>という二つの部分に分類

  でき、、、 <内容>とは発言のないようのことであり、<プロセス>

  とはその発言のされ方を意味する。」             p.223

 

と。  原書まで調べてはおりませんが、<プロセス>はもちろん process 、

<内容>は多分 contents ではあるまいか。 両者を適切にバランスさせる

には”ミーティング・ファシリテーター”の活用が、、と。  以下 p.224。

 

 「これは、内容についてはいっさい意見を述べず、会議の焦点を当面の

  課題に合わせることに専念する人で、外部のコンサルタントや会議の

  内容に関して利害関係のない第三者が担当する。」  その目的は、

 

 「会議から機械的にこなせる負担の多くを取り除き、メンバーの誰もが、

  より効果的に会議に参加できるようにしよう、というところにある。」

 

ナルホド、そういう職業(?)があるんですな、向こうには、、、。 

 

< facilitate >は、国際会議などでは頻繁に用いられる動詞、だそうですが、

語義としては辞書にある通り「しやすくする」、「促進する」を出るもの

ではない。 それが多用されるということが事実なら、どうやら会議とは

本質的に<難航する>、<停滞する>もの、と見るべきかも。  だから、

 

話が進みやすくなるようにする人、促進係、即ち”ファシリテーター”が

いた方が宜しかろう、と。  会議進行係、一種の専門司会者、ですかね。

 

想うにそれは、<プロセス>の達人に違いない。   Rational Process の

体現者、と言うべきかも知れません。  専門分野が細分化され、しかも

打開策を見いだすには多様な知識を組み合わせることが必要、という現状

では<プロセス>を専門的に担当する進行係、、 これは試す値打ちあり。

 

 

  ★と書いている折、TVが何ともハズカシイ光景を放映しております。

   8月30日にニューヨークは国連本部で始まった「世界議長会議」。

 

   約140カ国の国会議長が一堂に会する晴れ舞台での演説順一番目

   は我が綿貫衆議院議長。  新聞記事では、「、、、と述べ、、、、を

   強調した」となっているが、実際には<持ち時間超過>で女性議長

   に打ち切りを命じられ、不本意な中途退場。 おお、何たる不面目!

   

   「時間のルールを知らなかった。  事務局の手落ち、、、」と弁解

   されたそうだが、それは普通、まず演説者自身が確かめるべきこと。

  

   内容も<そんな程度の事務局>が準備したのでしょうから、どうせ

   通り一遍。 残りが聞けなくて残念だった、という声は、どこから

   も出なかった、、 ようです。  してもしなくても<良い>演説?

        

   <議長>こそ実質的ファシリテーターのはずなのですが、我が国政

   最高機関の現役議長がこのレベル。  あとは推して知るべし。 ★

 

*   *

 

意外にもケプナーとトレゴーの著書では、<プロセス>と<コンテンツ>

を併せて説明することをほとんどしていません。  僅かに序文の中で、

 

、、、the elements of problem solving and decision making do

  not change. Only the situations change---the contents upon

  which a rational process is focused.

 (、、問題解決や意思決定の要素は変わるものではない。 変わるのは

  状況だけ、即ち Rational Process で解明すべき事柄が変わるだけ。)

 

とあるくらい。 それも、この技法の内容や教授法が<十年一日>なのは

そういうわけで、、 という、やや防衛的な説明の一部。

 

しかしきわめて原理的でもあります。  一度身に着ければ生涯役立つ、と

言っているわけですから。  <講師>にでもなれば尚更。 そのせいか、

「コンテントはどのようにしてでも手に入る。 大切なのはプロセス!」

を連呼するややオカシイ講師もいたくらいです。  しかし説明としては、

 

俳聖芭蕉の「不易流行」の方がピッタリ。 句に詠み込まれる題材は季節

や時代と共にいくらでも変わり得るけれども、五七五の形式は不動である。

両者の調和によって、俳諧は風雅の芸術たりうる、、 というのですから。

 

Rational Process で言うプロセスが<不易>で、コンテンツは<流行>。

両者揃って、マネジメントは芸術となり得る、、  情報<コンテンツ>

は豊富でも、普通、玉石混淆。  どれを用いるか、どう組み合わせるか、

という<プロセス>次第で、大いに違った判断が生じることになり得ます。

 

いくら考えても自己流では、これで良いのだ、と言い切るには不安が残る

ものです。  しかし、不易の Rational Process に沿って出した結論なら、

かなり自信が持てるはず。  何しろグローバル・スタンダードですから。

 

さらに、「私が考えました」と言うよりも、ちょっと謙虚に「この技法を

用いた結果、、」とでも前置きすれば、たとえその結論が気に入らない人

がいたとしても、責めるられるのは(<あなた>でなく)<技法>になる

でしょう。  Rational Process は<あなたの安全を確保するツール>!

 

*   *   *

 

Rational Process が世に出た頃とは情報環境が一変しています。 量と

種類が豊富になり、<コンテンツ>は激増しました。 それなら、相応に

<プロセス>の活用度も高めないとバランスが取れない、、 でしょ?

 

今こそ、あなたが眠らせてしまっているかも知れないKT法、EM法を

目覚めさせ、働かせるべき時なのです。  せっかくの<プロセス>を、

そのようにご覧になったこと、ありましたかな?

 

<コンテンツ>の重圧に耐えかね、<プロセス>を思い浮かべる余裕を

失っておられたのではあるまいか?  技法が錆び付いてはいませんか?

 

前にも書いた通り、<プロセス>のスキルを提供する研修は、依然稀少

です。  まして個別に<錆落としのお手伝い>などしようと言うのは、

この「おたすけマン」くらいのもの。

 

<プロセス>の専門家を招きたい、と望んでも難しい。  会議だけ数回

付き合ってくれるコンサルタントなどいないだろうし、<ミーティング・

ファシリテーター>なるプロフェッショナルも日本には未だ現われない。

 

たとえ現われても閉鎖的、排他的な我が風土、<第三者>を呼び入れる

度量があるかどうか、、 というわけで、我が国の会議事情が近々好転

するとは思われません。 あなたが<それ>になるほか無いでしょうな。

 

「おたすけマン」サービスは基本的にEメール方式、ウェブ・サイトに

掲げた通りです。 あなたのテーマで<プロセス>の復習をしましょう。

かつて受講なさった時とは違って、きっと新しい発見がありますよ。

                          ■竹島元一■

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